エミー・カーマイケルの生涯

エミー・カーマイケルの伝記(「ドノヴァーの碧い空 エミー・カーマイケルの祈りと生涯」)を読みました。長い間、読みたいと思いながら手に入らなかったのですが、牧師の部屋にあるのを見つけ、読みたそうにしていると貸してくれました。

抜粋します。

 

 二十四歳で宣教の召しを受け、紆余曲折を経てインドに導かれ 、五十五年の間、一度も本国イギリスに戻ることなく、難しいタミル語をマスターし、生涯独身で、眠る時間も惜しんで働き続けました。

 そして、キリスト教信仰を告白することは、迫害、時には死をさえ意味するヒンズー教カースト制度の社会の中で、ヒンズー教寺院にささげられ神娼とされていく子どもたちを、身の危険を犯しながら救済する働きに取り組んだのでした。

 精力的な活動ののちに待っていたのは、二十年近くにわたる、ほとんど寝たきりの生活でした。しかし、その病の中で多くの本や市が生まれ、彼女の霊的な影響は世界中に広まっていきました。

 

少女時代

 1867年12月16日に北アイルランドの海辺の村ミルアイルの敬虔なクリスチャンの家庭に、7人きょうだいの長女として生まれる。 

 エミーが3歳になったある日、彼女は自分の目が母親のように大好きな青色になるように祈って床に就いた。翌朝、勇んで鏡をのぞき込むと、彼女の期待は見事に裏切られた。その時、どこからともなく声が聞こえてきた。「『いいえ』も祈りの答えではありませんか?」彼女は3歳にして、生涯忘れることのできないレッスンを学んだ。

 少女時代は、屋外での遊びを好み、子どもたちのリーダー格であった。12歳から15歳までメソジストの寄宿学校で学んだが、最終学年の時の伝道集会でキリストを受け入れた。

 この頃からカーマイケル家を経済的困窮が影を落とし始め、エミーが17歳の時に愛する父が亡くなった。この時から、エミーは一気に成長を遂げる。

 

霊的成長

 彼女の霊的成長において重要な意味をもつことになった事件が、この年一八八五年に起こった。

「あるどんよりした日曜日の朝。礼拝から帰る途中、ベルファストの通りで重い荷物を背負ったみすぼらしい老女にであった。突然同情の念にかられて、私と二人の弟たちは彼女に走り寄り、荷物を持ち、手を引いて歩き出した。礼拝から帰ってくる立派な身なりの人たちとすれ違いながら、恥ずかしさで、身も心も真っ赤になったように感じながら歩き続けた。噴水を通り過ぎた時、灰色の霧雨を突き抜けてきたかのように、力強いことばがひらめいた。

『金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます』(Ⅰコリント三・一二-一四)

 私の人生観を変えた何かが起こった。永遠に残るもののみが、価値のあるものとなった。そして、この体験が、私のインドにおけるライフ・ワークの源泉となった。」

 

 それからの彼女は、十七歳のうら若い女性にしては驚くほど数多くの奉仕に携わっていくようになる。子ども集会、貧困街での働き、夜間聖書学校、YWCA、だれからも顧みられなかった、製粉所ではたらく少女たちのための集会・・・・・・。

 

 製粉所で働く少女たちのための働きが大きくなり、五百人座ることのできるホールが必要になった時、彼女はこのための経済的な必要を人には話さず、ただ父なる神にのみ訴える決心をした。

 不思議なかたちでホールも土地もすべて備えられた。以来、経済的な必要は神にのみ満たしていただくという原則がエミーの心の中にでき、この時の経験に似た経験が、後に幾度も大小さまざまなスケールで繰り返されることになる。

 この時期に据えられたもう一つの土台は、主の働きの同労者は、「金、銀、宝石で建てる」ことに心を注ぐ人たち以外はお断りするという方針である。それは、彼女の生涯にわたる確信となった。

 この頃出会ったケズィック・コンベンションの創立者の一人であるロバート・ウィルソンは、後に、彼女の霊の父親のような存在になった。エミーと弟妹たちは、彼のブロートン屋敷にしばしば遊びに行くようになった。エミーの病気と愛娘を亡くしたウィルソンの必要が重なって、エミーはウィルソンの娘のようなかたちで、ブロートン屋敷に住むようになった。そこは神の備えた学びの場であった。

 

召命

 ブロートン屋敷で彼女は必要とされており、そこでの生活が続くものと思っていた。ところが一八九二年一月十三日(二四歳)、雪の降る夕方、エミーは突然「行きなさい」という、神からの明らかな宣教の召命を受けた。

 

 このように母は成熟したクリスチャンとして、エミーの召命を神からのものとして受けとめ、彼女を励ました。

 しかし、彼女が遠くの地に魅せられて、自分の責任を全うせずに、自分勝手な行動をしている、と誤解する人も少なくなかった。ウィルソンの息子たち、身近な叔母たち、そして、ケズィックの著名なリーダーたちからも非難の声が上がった。

 

日本へ

 1893年、25歳で宣教地日本へ旅立つ。松江のB.F.バックストンのもとで1年あまりの宣教活動を行った。ここで、後のインドにおける働きの基礎が築かれた。日本脳炎と思われる病気が悪化したため、医師に命じられて中国に一時静養に行くことになった。1894年、26歳の時に上海に渡り、そこにいる間に、神が用意された働きがスリランカで彼女を待っているという思いが与えられた。

 

インドへ

 その後道が開かれ、1895年、27歳の時に、南インドのバンガロールに到着した。

 後年振り返ってみた時、バンガロールの宣教師たちは、新米宣教師のエミーを暖かく迎えてくれたと懐かしく思えるのだが、当時は決して楽しくはなかった。特にある人の態度が周囲の人に対して不公平で、威張っていたので、エミーの中で”古い人”がいきり立つのが自分ではっきりわかった。その時、「この中にこそ、自分に死ぬ機会を見出しなさい」という声が聞こえた。それは、エミーの生涯を通じて、いのちと解放を与えることばとなった。自分の中にいきり立つものを感じるその時こそ、自分に対して死ぬ機会なのである。

 最初の一年は、いろいろな意味で困難な年であったが、同時に彼女が貴重な訓練を受ける年でもあった。彼女をバンガロールに招いてくれた先輩の宣教師は状況を察して、次のような手紙をくれた。

「最も難しいことは、自分の気に入らないことが次々と起こる中で、明るい態度を保つことです。尊敬を払わなければならない人の中に見られる嫌な癖、常に自分を苛立たせるやり方を受け入れ、心に平安を保つのは、私たちに対して絶対的な悪が犯された時よりも、大きな精神的な力を要求します。

 

 ヒンズー教徒として、またカースト制度に縛られている者が、クリスチャンになるということは、想像もつかないほどの家族や親戚からの断絶と迫害を意味した。

 グレート・レーク村に、ヒンズー教徒の子どもたちが通うミッション・スクールがあった。親たちは、子どもたちがそこで受けるキリスト教の影響について何の心配もしていなかった。五、六十年前に二人の男性がクリスチャンになっただけで、女性や子どもがクリスチャンになるということはいまだかつてなかったからである。

 ところが、校長先生の奥さんから聖書をもらった一人の少女が、ひそかに信仰を持った。彼女は、兄が彼女の額に塗る呪術的な聖灰を、兄がいなくなってから拭い取ったりしていたが、しだいに、家にいては公に信仰告白ができないということを悟った。

 後にジュエル・オブ・ビクトリー(勝利の宝石)と呼ばれるようになったこの少女は、ある日、明け方近く、何かが軽く触れるのを感じ、目を覚ますと、「行きなさい」という声を聞いた。彼女はだれにも見られることなく家を抜け出し、通りを走り、川を渡って、宣教師たちの住んでいる所へ来て助けを求めた。当然、家族や親戚から激しい攻撃を受けたが、見えない御手によって守られた。彼女は説得にも、暴力にも屈することなく堅く立ったが、その結果、グレート・レイク村のすべての門戸は閉ざされ、ミッション・スクールと教師の家が焼かれた。

 それにもかかわらず、六ヵ月もたたないうちに、ジュエル・オブ・ライフ(いのちの宝石)と呼ばれるようになった少女も助けを求めてきて、彼女も脅しにも説得にも屈しなかった。男性や少年の間にも回心者が起こり、一八九九年のイースターに最初の洗礼式が行われた。

 グレート・レイク村は閉ざされたが、神はアンクラウンド・キング村で働きを始められた。ウォーカー夫妻、エミー、そして六人のインドの働き人たちが伝道に行った時、神に心を備えられていた十一歳の少女がそこにいた。彼女はかんしゃく持ちで、何とかそれを直したいと努力していた。六人のうちの一人のインド人男性が、「生きておられる神が、ライオンのような私を羊に変えてくださいました」と語った時、その言葉が彼女の心をとらえた。この少女アルライも、死に至るまで四十年以上、エミーとともに、忠実に神の国の働き人として仕えた。

 翌一九〇〇年(三二歳)、二、三ヵ月の滞在のつもりで移って来たドノヴァーが、エミーの残りの生涯の働きの拠点となった。

 

最初の神娼の子ども

 「神に嫁ぐ身」としてヒンズー教の寺院にささげられた七歳の少女プリーナが、厳しい監視の目を逃れ、遠い道のりをどうやってエミーの所まで導かれて来たか、神の使いの守りがあったというほかない。

 一九〇一年 三月六日(三三歳)は、エミーのライフワークとなった、神殿に売られて神娼とされる少女たち(後には少年たちも)の救出の開始の日となった。・・・ 

 プリーナは、以前にも一度、巫女の家から逃げて二日間歩いて母親の所に戻ったことがあったが、母親はしがみつく彼女を、追って来た巫女たちに押し返した。プリーナは罰として、手に焼きごてで烙印された。彼女はおぼろげに、自分が「神に嫁ぐ身」であり、歌や踊りの練習は恥辱の生活への序奏であると悟った。子ども心にもそれは耐えられないものであり、何としてでも、うわさに聞いていた「子どもさらいのおかあさん」(エミーのこと)のもとに逃げて行きたいと思っていた。

 ある晩、彼女は天使を見たわけでも、またその声を聞いたわけでもないが、起き上がり、寺院を出た。だれにも見られずに、村の道を進み、川を越え、ヤシの林を通り抜け、川向うの村へ向かって走った。親切なクリスチャンの婦人が彼女を一晩かくまい、翌朝、エミーの所へ連れて来たのである。

 彼女の話から、今までだれも考えたことのないような不道徳、悪が寺院の中で行われていることが明らかになってきた。事実を探っていくにつれ、そのショックに、太陽の光さえ暗くなり、笑いが圧殺されていくようだった。エミーは何とかしなければ、と思うのだが、すべては秘密のうちに暗闇の中で行われるので、どこから手をつけてよいのかわからなかった。

 しかし、エミーは持ち前の情熱で、子どもたちが売られて神娼とされていく事実を次々と突き止めた。活字にできない部分は控えながらも、本を通して、今までほとんど触れられることのなかった世界を公にすると、宣教団体や政府もしだいに前向きにこの事態に取り組むようになり、子どもたちの売買を禁じる法律が強化された。皮肉なことに、これは売買をさらに暗闇に追いやることになったのだが・・・・・・。

 

 赤ん坊が次々と連れられて来るようになると、エミーは巡回伝道を断念し、彼らのために家と家庭を用意する必要が出てきた。恵まれない環境で生まれた赤ん坊は、体が弱く、懸命な看病にもかかわらず、一人また一人と死んでいった。三人目の赤ん坊を葬った時、エミーは、自分の希望すら葬ってしまったようなたまらない気持ちになった。その暗闇の中で、神の確かなご臨在を感じなかったら、この新しい働きを続けることはできなかったであろう。

 南インドの各地から、彼女に来てほしいとの要請があり、実りある働きがたくさんあるのに、子どもの世話に追われているのが果たして正しいことなのか迷うこともあった。

 けれども、ヨハネ一三章に記されている、「栄光の主が手ぬぐいを取って腰にまとわれた」姿を見た時、主のしもべが、どちらの仕事が偉大で、どちらの仕事がつまらないかなどと判断する資格はないとはっきり悟った。その時から、堰を切ったように赤ん坊が次々とやってくるようになった。

 

同労者たち

 子どもたちに献身的に尽くす同労者たち、本国で祈りと献金をもって応援してくれるサポーターたちに加えて必要になってきたのが、医学の知識を持った働き人だった。一九〇六年(三八歳)、コレラがドノヴァーの周辺の村々に広がった時、医者も薬もない中で、エミーたちは手伝いに駆り出された。翌年、ヨークシャーから遣わされて来たメーベル・ウェードは、まさに祈りの答えだった。神さまが選び、送ってくださる働き人は、すでにドノヴァーで働いている人たちの中に、音楽の和音のようにきれいに溶け込むのだった。

 

愛の共同体

 ドノヴァーのような共同体の中で、愛がいかに大切であり、愛のなさはガンのような死をもたらす、と彼女は繰り返し繰り返し強調した。祈祷会に集う者たちの間の愛が冷えていることを感じとると、エミーは、一度ならず集会の途中でも彼らに悔い改めを迫った。

 ドノヴァー・ファミリーは、一九五二年には九百人に増えていた。その間に建てられた病院は地域に仕え、福音を広めるのに用いられた。この大家族と病院の働きのために、多くの働き人を必要としたことは言うまでもない。

 

働きの拡大

 一九二〇年代は、急激な拡張の時代であった。子どもたちの救出と地域の伝道活動と並行して、敷地の中では、いつも何かの建物が建てられる槌音が響いていた。一九二三年には、三十もの生活棟が建てられていた。中でも、「祈りの家」の建設は大きな喜びだった。月に一度の祈りの日は、ドノヴァー・ファミリーにとって欠かせないものになっていた。

 ハドソン・テーラー(一八三二-一九〇五。英国宣教師。チャイナ・インランド・ミッション創設者)がかつて、「キリストに仕えるために忙しく働き過ぎて、祈るための力が残っていないなどということのないように」といったように、真の祈りには力が必要である。ドノヴァーのような大家族においては、たとえ半日でも祈りの時を設けるためには、前もって計画を立て、仕事をそれに合わせて進めなければならなかった。祈りの日、祈りの時はそれほど重要であり、それほど価値があった。

 

 一九三一年八月(六三歳)の「祈りの日」に、まだ福音の届いていないイスラム教徒、ヒンズー教徒に働きを広げなければならないという重荷が与えられた。十月二十四日の朝の祈りの時に、エミーは次のように祈った。

「みこころを私になしてください。あなたに仕え、そして愛する人々を助けるために必要なことは何でも私の上になしてください

その日の夕方、建築現場を見に行った時、人夫が掘った穴に気づかず、エミーはすべって転んだ。その時、彼女の”兵士”としての働きが終わったことを、だれ一人として知らなかった。

 

兵士としての働きの終わり

 足首の上の骨折と足首の脱臼は、確かに大変なけがであったに違いないが、数週間休めば治ると思われた。ファミリーにとって、彼女はまだまだ必要とされている器ではなかったか。

 神の御名の栄光のために、彼女が速やかにいやされ、人々の目に神の力が見えることを誰もが願った。エミーのけがが悪霊の働きであると言う人々や、アラーの神のたたりであると確信するイスラム教徒の中で、それが特に必要であると思われた。多くの祈りがささげられ、連鎖祈祷も持たれた。しかし神は、それから二十年近くの間、彼女が部屋からほとんど出ることのない身体になることをゆるされた。

 

  また一九三一年以降、十三冊の新しい本を著し、以前に書いた本を出版のために手直しする作業もした。日毎の祈り会や祈りの日のための詩を書き、それにメロディーをつけて歌えるようにした。神は彼女のペンを用いて、健康な時よりもさらに広い範囲に祝福を届かせた。

 しばしば、彼女に会って話をしたい人の列は一日中続いた。子どもたちとは定期的に会えるように計画を立て、よほどの痛みがないかぎり、リーダーたちとは毎日ミーティングを持つようにした。

 

病床で

 同労者たちが一日の働きで疲れ果てているのに、自分だけが困難から隔離されているのは、どんなに辛かったことか。長引く病で周囲の人々に迷惑をかけたくないと、あれだけ祈っていたエミーにとって、自分を世話するために同労者の時間が取られ、疲れるのを見るのは耐え難いことだった。

 彼女の祈りは、自分の魂を覆う影が、部屋に入って来る人たちを覆うことがないように、というものだったその祈りは確かに聞かれた。彼女の部屋「平安の部屋」に入った者で、そこに主を見て励まされなかった者はほとんどなく、彼女もまた、一人一人のうちにキリストを見て喜んだ。

 

 病床は尊い祈りの花を咲かせる畑であると言われるが、決してそうではないと彼女は告白している。

「病床は体も心も鈍くなる場所です。そして、祈りは仕事です。世界中で最も精力を必要とする仕事です。」

 

 「もし祈りが大切であるなら、私たちの生活設計の中で、常に二番目の位置を占めるべきではありません。・・・・・悪魔は絶えず、私たちの半時間の祈りに対して戦いを挑んできます。彼は戦うのに飽きることはありません。時には地獄の雲で私たちの心を襲うかのように、私たちの心を鈍くさせ、時には火のように襲ってきます」 

 

 八十三歳の誕生日、クリスマスも過ぎ、一月も二週目に入ると、彼女は眠っていることが多くなった。一八九二年一月十三日に神の召しの声を聞いてから五十九年、彼女の足は山の頂上にたどり着いたようだ。ファミリーのメンバーは、「平安の部屋」に静かに入って来ることが許された。 

 「『さようなら』を言うこともなく、だれをも苦しめることのないように」というエミーの祈りは聞かれ、一九五一年一月十八日の早朝、彼女は最後の一歩を歩み終えると、天国への門をくぐった。

 


ドノヴァーの碧い空 | 教文館キリスト教書部