エミー・カーマイケルの生涯

エミー・カーマイケルの伝記(「ドノヴァーの碧い空 エミー・カーマイケルの祈りと生涯」)を読みました。長い間、読みたいと思いながら手に入らなかったのですが、牧師の部屋にあるのを見つけ、読みたそうにしていると貸してくれました。

抜粋します。

 

 二十四歳で宣教の召しを受け、紆余曲折を経てインドに導かれ 、五十五年の間、一度も本国イギリスに戻ることなく、難しいタミル語をマスターし、生涯独身で、眠る時間も惜しんで働き続けました。

 そして、キリスト教信仰を告白することは、迫害、時には死をさえ意味するヒンズー教カースト制度の社会の中で、ヒンズー教寺院にささげられ神娼とされていく子どもたちを、身の危険を犯しながら救済する働きに取り組んだのでした。

 精力的な活動ののちに待っていたのは、二十年近くにわたる、ほとんど寝たきりの生活でした。しかし、その病の中で多くの本や市が生まれ、彼女の霊的な影響は世界中に広まっていきました。

 

少女時代

 1867年12月16日に北アイルランドの海辺の村ミルアイルの敬虔なクリスチャンの家庭に、7人きょうだいの長女として生まれる。 

 エミーが3歳になったある日、彼女は自分の目が母親のように大好きな青色になるように祈って床に就いた。翌朝、勇んで鏡をのぞき込むと、彼女の期待は見事に裏切られた。その時、どこからともなく声が聞こえてきた。「『いいえ』も祈りの答えではありませんか?」彼女は3歳にして、生涯忘れることのできないレッスンを学んだ。

 少女時代は、屋外での遊びを好み、子どもたちのリーダー格であった。12歳から15歳までメソジストの寄宿学校で学んだが、最終学年の時の伝道集会でキリストを受け入れた。

 この頃からカーマイケル家を経済的困窮が影を落とし始め、エミーが17歳の時に愛する父が亡くなった。この時から、エミーは一気に成長を遂げる。

 

霊的成長

 彼女の霊的成長において重要な意味をもつことになった事件が、この年一八八五年に起こった。

「あるどんよりした日曜日の朝。礼拝から帰る途中、ベルファストの通りで重い荷物を背負ったみすぼらしい老女にであった。突然同情の念にかられて、私と二人の弟たちは彼女に走り寄り、荷物を持ち、手を引いて歩き出した。礼拝から帰ってくる立派な身なりの人たちとすれ違いながら、恥ずかしさで、身も心も真っ赤になったように感じながら歩き続けた。噴水を通り過ぎた時、灰色の霧雨を突き抜けてきたかのように、力強いことばがひらめいた。

『金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます』(Ⅰコリント三・一二-一四)

 私の人生観を変えた何かが起こった。永遠に残るもののみが、価値のあるものとなった。そして、この体験が、私のインドにおけるライフ・ワークの源泉となった。」

 

 それからの彼女は、十七歳のうら若い女性にしては驚くほど数多くの奉仕に携わっていくようになる。子ども集会、貧困街での働き、夜間聖書学校、YWCA、だれからも顧みられなかった、製粉所ではたらく少女たちのための集会・・・・・・。

 

 製粉所で働く少女たちのための働きが大きくなり、五百人座ることのできるホールが必要になった時、彼女はこのための経済的な必要を人には話さず、ただ父なる神にのみ訴える決心をした。

 不思議なかたちでホールも土地もすべて備えられた。以来、経済的な必要は神にのみ満たしていただくという原則がエミーの心の中にでき、この時の経験に似た経験が、後に幾度も大小さまざまなスケールで繰り返されることになる。

 この時期に据えられたもう一つの土台は、主の働きの同労者は、「金、銀、宝石で建てる」ことに心を注ぐ人たち以外はお断りするという方針である。それは、彼女の生涯にわたる確信となった。

 この頃出会ったケズィック・コンベンションの創立者の一人であるロバート・ウィルソンは、後に、彼女の霊の父親のような存在になった。エミーと弟妹たちは、彼のブロートン屋敷にしばしば遊びに行くようになった。エミーの病気と愛娘を亡くしたウィルソンの必要が重なって、エミーはウィルソンの娘のようなかたちで、ブロートン屋敷に住むようになった。そこは神の備えた学びの場であった。

 

召命

 ブロートン屋敷で彼女は必要とされており、そこでの生活が続くものと思っていた。ところが一八九二年一月十三日(二四歳)、雪の降る夕方、エミーは突然「行きなさい」という、神からの明らかな宣教の召命を受けた。

 

 このように母は成熟したクリスチャンとして、エミーの召命を神からのものとして受けとめ、彼女を励ました。

 しかし、彼女が遠くの地に魅せられて、自分の責任を全うせずに、自分勝手な行動をしている、と誤解する人も少なくなかった。ウィルソンの息子たち、身近な叔母たち、そして、ケズィックの著名なリーダーたちからも非難の声が上がった。

 

日本へ

 1893年、25歳で宣教地日本へ旅立つ。松江のB.F.バックストンのもとで1年あまりの宣教活動を行った。ここで、後のインドにおける働きの基礎が築かれた。日本脳炎と思われる病気が悪化したため、医師に命じられて中国に一時静養に行くことになった。1894年、26歳の時に上海に渡り、そこにいる間に、神が用意された働きがスリランカで彼女を待っているという思いが与えられた。

 

インドへ

 その後道が開かれ、1895年、27歳の時に、南インドのバンガロールに到着した。

 後年振り返ってみた時、バンガロールの宣教師たちは、新米宣教師のエミーを暖かく迎えてくれたと懐かしく思えるのだが、当時は決して楽しくはなかった。特にある人の態度が周囲の人に対して不公平で、威張っていたので、エミーの中で”古い人”がいきり立つのが自分ではっきりわかった。その時、「この中にこそ、自分に死ぬ機会を見出しなさい」という声が聞こえた。それは、エミーの生涯を通じて、いのちと解放を与えることばとなった。自分の中にいきり立つものを感じるその時こそ、自分に対して死ぬ機会なのである。

 最初の一年は、いろいろな意味で困難な年であったが、同時に彼女が貴重な訓練を受ける年でもあった。彼女をバンガロールに招いてくれた先輩の宣教師は状況を察して、次のような手紙をくれた。

「最も難しいことは、自分の気に入らないことが次々と起こる中で、明るい態度を保つことです。尊敬を払わなければならない人の中に見られる嫌な癖、常に自分を苛立たせるやり方を受け入れ、心に平安を保つのは、私たちに対して絶対的な悪が犯された時よりも、大きな精神的な力を要求します。

 

 ヒンズー教徒として、またカースト制度に縛られている者が、クリスチャンになるということは、想像もつかないほどの家族や親戚からの断絶と迫害を意味した。

 グレート・レーク村に、ヒンズー教徒の子どもたちが通うミッション・スクールがあった。親たちは、子どもたちがそこで受けるキリスト教の影響について何の心配もしていなかった。五、六十年前に二人の男性がクリスチャンになっただけで、女性や子どもがクリスチャンになるということはいまだかつてなかったからである。

 ところが、校長先生の奥さんから聖書をもらった一人の少女が、ひそかに信仰を持った。彼女は、兄が彼女の額に塗る呪術的な聖灰を、兄がいなくなってから拭い取ったりしていたが、しだいに、家にいては公に信仰告白ができないということを悟った。

 後にジュエル・オブ・ビクトリー(勝利の宝石)と呼ばれるようになったこの少女は、ある日、明け方近く、何かが軽く触れるのを感じ、目を覚ますと、「行きなさい」という声を聞いた。彼女はだれにも見られることなく家を抜け出し、通りを走り、川を渡って、宣教師たちの住んでいる所へ来て助けを求めた。当然、家族や親戚から激しい攻撃を受けたが、見えない御手によって守られた。彼女は説得にも、暴力にも屈することなく堅く立ったが、その結果、グレート・レイク村のすべての門戸は閉ざされ、ミッション・スクールと教師の家が焼かれた。

 それにもかかわらず、六ヵ月もたたないうちに、ジュエル・オブ・ライフ(いのちの宝石)と呼ばれるようになった少女も助けを求めてきて、彼女も脅しにも説得にも屈しなかった。男性や少年の間にも回心者が起こり、一八九九年のイースターに最初の洗礼式が行われた。

 グレート・レイク村は閉ざされたが、神はアンクラウンド・キング村で働きを始められた。ウォーカー夫妻、エミー、そして六人のインドの働き人たちが伝道に行った時、神に心を備えられていた十一歳の少女がそこにいた。彼女はかんしゃく持ちで、何とかそれを直したいと努力していた。六人のうちの一人のインド人男性が、「生きておられる神が、ライオンのような私を羊に変えてくださいました」と語った時、その言葉が彼女の心をとらえた。この少女アルライも、死に至るまで四十年以上、エミーとともに、忠実に神の国の働き人として仕えた。

 翌一九〇〇年(三二歳)、二、三ヵ月の滞在のつもりで移って来たドノヴァーが、エミーの残りの生涯の働きの拠点となった。

 

最初の神娼の子ども

 「神に嫁ぐ身」としてヒンズー教の寺院にささげられた七歳の少女プリーナが、厳しい監視の目を逃れ、遠い道のりをどうやってエミーの所まで導かれて来たか、神の使いの守りがあったというほかない。

 一九〇一年 三月六日(三三歳)は、エミーのライフワークとなった、神殿に売られて神娼とされる少女たち(後には少年たちも)の救出の開始の日となった。・・・ 

 プリーナは、以前にも一度、巫女の家から逃げて二日間歩いて母親の所に戻ったことがあったが、母親はしがみつく彼女を、追って来た巫女たちに押し返した。プリーナは罰として、手に焼きごてで烙印された。彼女はおぼろげに、自分が「神に嫁ぐ身」であり、歌や踊りの練習は恥辱の生活への序奏であると悟った。子ども心にもそれは耐えられないものであり、何としてでも、うわさに聞いていた「子どもさらいのおかあさん」(エミーのこと)のもとに逃げて行きたいと思っていた。

 ある晩、彼女は天使を見たわけでも、またその声を聞いたわけでもないが、起き上がり、寺院を出た。だれにも見られずに、村の道を進み、川を越え、ヤシの林を通り抜け、川向うの村へ向かって走った。親切なクリスチャンの婦人が彼女を一晩かくまい、翌朝、エミーの所へ連れて来たのである。

 彼女の話から、今までだれも考えたことのないような不道徳、悪が寺院の中で行われていることが明らかになってきた。事実を探っていくにつれ、そのショックに、太陽の光さえ暗くなり、笑いが圧殺されていくようだった。エミーは何とかしなければ、と思うのだが、すべては秘密のうちに暗闇の中で行われるので、どこから手をつけてよいのかわからなかった。

 しかし、エミーは持ち前の情熱で、子どもたちが売られて神娼とされていく事実を次々と突き止めた。活字にできない部分は控えながらも、本を通して、今までほとんど触れられることのなかった世界を公にすると、宣教団体や政府もしだいに前向きにこの事態に取り組むようになり、子どもたちの売買を禁じる法律が強化された。皮肉なことに、これは売買をさらに暗闇に追いやることになったのだが・・・・・・。

 

 赤ん坊が次々と連れられて来るようになると、エミーは巡回伝道を断念し、彼らのために家と家庭を用意する必要が出てきた。恵まれない環境で生まれた赤ん坊は、体が弱く、懸命な看病にもかかわらず、一人また一人と死んでいった。三人目の赤ん坊を葬った時、エミーは、自分の希望すら葬ってしまったようなたまらない気持ちになった。その暗闇の中で、神の確かなご臨在を感じなかったら、この新しい働きを続けることはできなかったであろう。

 南インドの各地から、彼女に来てほしいとの要請があり、実りある働きがたくさんあるのに、子どもの世話に追われているのが果たして正しいことなのか迷うこともあった。

 けれども、ヨハネ一三章に記されている、「栄光の主が手ぬぐいを取って腰にまとわれた」姿を見た時、主のしもべが、どちらの仕事が偉大で、どちらの仕事がつまらないかなどと判断する資格はないとはっきり悟った。その時から、堰を切ったように赤ん坊が次々とやってくるようになった。

 

同労者たち

 子どもたちに献身的に尽くす同労者たち、本国で祈りと献金をもって応援してくれるサポーターたちに加えて必要になってきたのが、医学の知識を持った働き人だった。一九〇六年(三八歳)、コレラがドノヴァーの周辺の村々に広がった時、医者も薬もない中で、エミーたちは手伝いに駆り出された。翌年、ヨークシャーから遣わされて来たメーベル・ウェードは、まさに祈りの答えだった。神さまが選び、送ってくださる働き人は、すでにドノヴァーで働いている人たちの中に、音楽の和音のようにきれいに溶け込むのだった。

 

愛の共同体

 ドノヴァーのような共同体の中で、愛がいかに大切であり、愛のなさはガンのような死をもたらす、と彼女は繰り返し繰り返し強調した。祈祷会に集う者たちの間の愛が冷えていることを感じとると、エミーは、一度ならず集会の途中でも彼らに悔い改めを迫った。

 ドノヴァー・ファミリーは、一九五二年には九百人に増えていた。その間に建てられた病院は地域に仕え、福音を広めるのに用いられた。この大家族と病院の働きのために、多くの働き人を必要としたことは言うまでもない。

 

働きの拡大

 一九二〇年代は、急激な拡張の時代であった。子どもたちの救出と地域の伝道活動と並行して、敷地の中では、いつも何かの建物が建てられる槌音が響いていた。一九二三年には、三十もの生活棟が建てられていた。中でも、「祈りの家」の建設は大きな喜びだった。月に一度の祈りの日は、ドノヴァー・ファミリーにとって欠かせないものになっていた。

 ハドソン・テーラー(一八三二-一九〇五。英国宣教師。チャイナ・インランド・ミッション創設者)がかつて、「キリストに仕えるために忙しく働き過ぎて、祈るための力が残っていないなどということのないように」といったように、真の祈りには力が必要である。ドノヴァーのような大家族においては、たとえ半日でも祈りの時を設けるためには、前もって計画を立て、仕事をそれに合わせて進めなければならなかった。祈りの日、祈りの時はそれほど重要であり、それほど価値があった。

 

 一九三一年八月(六三歳)の「祈りの日」に、まだ福音の届いていないイスラム教徒、ヒンズー教徒に働きを広げなければならないという重荷が与えられた。十月二十四日の朝の祈りの時に、エミーは次のように祈った。

「みこころを私になしてください。あなたに仕え、そして愛する人々を助けるために必要なことは何でも私の上になしてください

その日の夕方、建築現場を見に行った時、人夫が掘った穴に気づかず、エミーはすべって転んだ。その時、彼女の”兵士”としての働きが終わったことを、だれ一人として知らなかった。

 

兵士としての働きの終わり

 足首の上の骨折と足首の脱臼は、確かに大変なけがであったに違いないが、数週間休めば治ると思われた。ファミリーにとって、彼女はまだまだ必要とされている器ではなかったか。

 神の御名の栄光のために、彼女が速やかにいやされ、人々の目に神の力が見えることを誰もが願った。エミーのけがが悪霊の働きであると言う人々や、アラーの神のたたりであると確信するイスラム教徒の中で、それが特に必要であると思われた。多くの祈りがささげられ、連鎖祈祷も持たれた。しかし神は、それから二十年近くの間、彼女が部屋からほとんど出ることのない身体になることをゆるされた。

 

  また一九三一年以降、十三冊の新しい本を著し、以前に書いた本を出版のために手直しする作業もした。日毎の祈り会や祈りの日のための詩を書き、それにメロディーをつけて歌えるようにした。神は彼女のペンを用いて、健康な時よりもさらに広い範囲に祝福を届かせた。

 しばしば、彼女に会って話をしたい人の列は一日中続いた。子どもたちとは定期的に会えるように計画を立て、よほどの痛みがないかぎり、リーダーたちとは毎日ミーティングを持つようにした。

 

病床で

 同労者たちが一日の働きで疲れ果てているのに、自分だけが困難から隔離されているのは、どんなに辛かったことか。長引く病で周囲の人々に迷惑をかけたくないと、あれだけ祈っていたエミーにとって、自分を世話するために同労者の時間が取られ、疲れるのを見るのは耐え難いことだった。

 彼女の祈りは、自分の魂を覆う影が、部屋に入って来る人たちを覆うことがないように、というものだったその祈りは確かに聞かれた。彼女の部屋「平安の部屋」に入った者で、そこに主を見て励まされなかった者はほとんどなく、彼女もまた、一人一人のうちにキリストを見て喜んだ。

 

 病床は尊い祈りの花を咲かせる畑であると言われるが、決してそうではないと彼女は告白している。

「病床は体も心も鈍くなる場所です。そして、祈りは仕事です。世界中で最も精力を必要とする仕事です。」

 

 「もし祈りが大切であるなら、私たちの生活設計の中で、常に二番目の位置を占めるべきではありません。・・・・・悪魔は絶えず、私たちの半時間の祈りに対して戦いを挑んできます。彼は戦うのに飽きることはありません。時には地獄の雲で私たちの心を襲うかのように、私たちの心を鈍くさせ、時には火のように襲ってきます」 

 

 八十三歳の誕生日、クリスマスも過ぎ、一月も二週目に入ると、彼女は眠っていることが多くなった。一八九二年一月十三日に神の召しの声を聞いてから五十九年、彼女の足は山の頂上にたどり着いたようだ。ファミリーのメンバーは、「平安の部屋」に静かに入って来ることが許された。 

 「『さようなら』を言うこともなく、だれをも苦しめることのないように」というエミーの祈りは聞かれ、一九五一年一月十八日の早朝、彼女は最後の一歩を歩み終えると、天国への門をくぐった。

 


ドノヴァーの碧い空 | 教文館キリスト教書部

 

「社会的つながり」が、現代人の健康に最も重要

面白い記事がありました。

TEDxUTokyoでのスピーチからで、現代の死亡率を減少させる主要な要因が、「社会的なつながり」があることだそうです。

21世紀、慢性疾患と精神疾患が主な健康課題の現在、健康づくりの1番のキーワードは、「つながり」だと言われてます。

人の心身の健康に大きな影響を与えているということだと思います。

 


友だちの数で寿命は決まる!? 最も健康に悪いのはタバコじゃなくて「孤独」だった | ログミー[o_O]

 

研究がありまして、急性心筋梗塞で入院した人が6ヶ月間に死亡するかどうかっていう見たものなんですけれども、お見舞いに来てくれるひと、サポートしてくる人の人数によって死亡率がどう変わるかという、有名な研究なんですが、ひとりもサポートしてくる人がいないと、6ヶ月以内になくなる確率が69パーセントだったんですね。

1人いると43パーセント。2人以上いると、26パーセントというようにですね、同じ心臓病で同じような手術を受けて治療しているにもかかわらず、サポートしてくれる人がどれだけいるかで死亡率が全然違うんですよ。

 

スピーチの中では、データに基づいて社会的つながりの重要性を説明した後に、つながりの多い人の特徴を述べています。

欠点のある人に対しても、「○○だけど、いい人だよな。」と肯定することが、特徴だそうです。ごく当たり前のことですが、説得力があり、学ぶことも多いと思いました。

 

 

 

情報収集ツール

 新聞を片手に、聖書を片手に持って、世界のために執り成しなさいと言われたことがあります。

 最近は、新聞やテレビがなくても、かなりの情報をウェブ上で無料で手に入れることができるようになってきました。

 ニュースだけでなく、ウェブの技術は日進月歩で、教会に役立つ情報も数多くあります。ここでは、様々な情報を集めるために便利なツールを紹介します。多数のツールがありますが、実際に私が使用して、良いと感じたものを紹介します。(類似のツールは、かなり省略しています。)

 

  個人的な興味に合わせて、ウェブ上の情報からニュースをメール配信してくれるサービス。無料です。自分ではあまりニュースを見ない人向けに作られたとか。関心にあった情報を提供してくれます。

 

  • Pocket


    Pocket

  読みたいけど、すぐに読む時間がない時に、情報を保存してくれるサイトです。使ってみると便利でした。画像付きできれいなサムネイル表示をしてくれるので、新聞のスクラップをする感覚で、ウェブサイトを簡単に保存できます。

 

  • Feedly


    feedly. Read more, know more.

  ウェブサイトを定期的にチェックする際に便利です。サイトの登録等が簡単にできます。

 

  • Prismatic


    Prismatic

  英語版Gunosyのようなサイトです。ウェブ上のニュースを、個人の興味に合わせてメール配信してくれます。

 

 

社会のニュースや、役に立つ情報を集めるためには、これだけでもかなり有効だと思います。キリスト教界の情報をうまく集める方法がまだ見つかりません。おそらくキリスト教のニュースサイトやポータルサイトからうまく情報を集めるのが良いだろうと思います。

 

 

エズラ記

エズラ記を読むにあたって

聖書の他の書物との関係

  • エズラ記とネヘミヤ記は、ヘブル語聖書では一つの書物。[1]p407
  • エズラ記、ハガイ書、ゼカリヤ書は、神殿再建の時の書物。[1]p407
  • エステル書、ダニエル書とも時期が重なる。

歴史的背景

捕囚の開始
  • BC605年 ダニエルら、人質としてバビロンへ(Ⅱ列王24:1、ダニエル1章) [1]付録年表
  • BC597年 ネブカデネザル王によりエルサレム陥落、エホヤキン王ら、ユダの民がバビロンに捕囚となる。[1]付録年表
  • BC587年 ネブカデネザル2世、エルサレムの神殿を破壊。ユダの多くの民がバビロンに捕囚 [1] 付録年表
  • BC539年 ベルシャツァルの大宴会(ダニエル5章)/ペルシアのクロス王によりバビロン陥落。[1] 付録年表
捕囚からの帰還
  • BC539年 (キュロスの第1年)クロス王により、ユダヤ人の帰還の許可(エズラ1:1-4) [1]付録年表
  • BC538年 ゼルバベルによる第1回目のエルサレム帰還(エズラ1,2章) [1]p422
  • BC537年 帰還の民の到着。(第七の月)祭壇の再建(エズラ3:1-6) [1]p409
  • BC536年 (第二の月)神殿の基礎を据える(エズラ3:8,11,12) [1]p413
  • BC521年? (ダリヨス王の治世第一年) ダニエル、エルサレムのために断食(ダニエル9章)
  • BC520年 (ダリヨスの治世第2年)預言者ハガイとゼカリヤの預言(エズラ4:24, ハガイ1:1,15, 2:1,10,20、ゼカリヤ1:1,7)神殿の工事の再開 (ダリヨスの4年に再びゼカリヤに預言(7章)断食に関して。)
  • BC515年 (ダリヨスの治世第6年アダルの月)神殿の完成 [1]p409
  • BC480年ごろ ゼカリヤ書後半(9~14章)が書かれる。[1] p841
  • BC458年 エズラによる第2回目のエルサレム帰還 [1] p422
  • BC445年 ネヘミヤによる第3回目のエルサレム帰還 [1] p424

 

バビロン捕囚が70年続く預言について

エレミヤは、ユダヤ人のバビロン捕囚が70年で終わると預言した。(エレミヤ25:11、29:10)ダニエルもこれを知り、祈った。(ダニエル9:2)

70年という期間については、2説ある。([1]p409)

  1. 捕囚が始まったBC605年から、BC537年の祭壇再建まで。
  2. BC586年の神殿破壊から、BC515年の神殿再建まで

後者の説をとる学者が多い。([1]p409)

 

エズラ記の記述と年代

エズラ記の大区分

エズラ記の記事は、年代的に2つに分かれる。([1]p407)

1~6章:BC538年 ゼルバベルによる第1回目エルサレム帰還

     ~BC515年 神殿再建の完成

7~10章:BC458年 エズラによる第2回目のエルサレム帰還

     ~BC450年 

 

エズラ記の前半(ゼルバベルによる第1次帰還~神殿再建)の年代

 ゼルバベルら第1次帰還民の帰還から神殿再建までのエズラ記1章から6章までの記述は、基本的には時系列になっているが、エズラ記の一部(4:6-23)は時系列に従っていない。そのため、神殿再建までの流れが分かりにくい。エルサレムの復興は、大きくは祭壇の建設、神殿の再建、城壁の再建(主にネヘミヤ記)となる。

 エズラ記の前半(エルサレム再建)は、時系列に従うと、以下の順序で進んだ。

  1. ゼルバベルによるエルサレム帰還1~2章
  2. 祭壇の建設(エズラ3:1-5,6)
  3. 神殿の建築(エズラ3:8-13)
  4. 神殿の工事の中断(エズラ4:1-5)
  5. 神殿の工事の再開(エズラ5:1-5)
  6. 神殿の工事へのダリヨス王の許可(エズラ5:6-17,6:1-22)
  7. 神殿の完成(エズラ6:13-22)

 エズラ記4:6-23は、時系列的には6章以降にあたる。アルタシャスタ王(アルタクセルクセス)の時代は、ダリヨス王よりも後である。エズラ記7:1がアルタシャスタの時代である。

エズラ記の後半(エズラによる第2次帰還~)の年代

 エズラによる第2次帰還はBC458年で、ゼルバベルによる第1次帰還の80年後である。神殿が完成した6章の終わり(BC515年)から、60年以上が経過している。アルタシャスタ王の時代である。

 アハシュエロス王は、アルタシャスタの父であり、エズラ記の6章と7章の間にあたる。エステル記の出来事は、この間に起こった。[1] p417

 

その他

 帰還の道のりは、バビロンから(砂漠地帯を迂回して)1,400~1,500kmで、約4か月かかった。[1] p419

 

王の順番

(抜け漏れ等あるかもしれません。順番のみ。)

バビロニア ネブカデネザル2世

バビロニア ベルシャツァル

ペルシャ  クロス(エズラ1:1)

ペルシャ  ダリヨス

ペルシャ  アハシュエロス(エステル記)

ペルシャ  アルタシャスタ(アルタクセルクセス)

 

参考文献:

1.「BIBLEnavi ディボーショナル聖書注解」いのちのことば社

 

「慰めと励ましの言葉 マルティン・ルターによる一日一章」 徳善義和監修

 デボーションで使用している本を紹介します。

「慰めと励ましの言葉 マルティン・ルターによる一日一章」徳善義和 監修、湯川郁子訳

 私が大学生だった時、自分の信仰を試みられ、自分は正しい信仰に立っているのか、真剣に祈らされたことがありました。その時に、大学の図書館にあった、ルターのローマ書講解(講義)を読んで、自分の聖書信仰と体験は間違っていないと確信し、信仰に立つようにと力強い励ましを受けました。それ以来、ルターの本を何冊も読むようになりました。

 本書はタイトルの通り、一日一章のデボーションのための本です。キリスト者としての信仰のあり方を確認し、修正するために使っています。

 

慰めと励ましの言葉―マルティン・ルターによる一日一章

慰めと励ましの言葉―マルティン・ルターによる一日一章

 

 

ちょうど、今日の黙想文が、ルターの信仰の論理の典型的な語り口に思えたので、ご紹介します。神の律法に心から従い、その裁きに完全に服しながら、裁かれるべき罪人として、どこまでも福音により頼んで、信仰によって福音に立っていくことを、繰り返し繰り返し語っています。

 

12月12日

「律法はモーセを通して与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストを通してきたのである。」(ヨハネによる福音書第一章一七節)

 

 律法が、あなたの不安にさいなまれた良心に向かって、「これこれはあなたに命じられている。あなたはそれを行っていない。だから、あなたは咎められなければならない」というとき・・・・・・このような挑戦や死の恐怖に悩むときこそ、信仰が奮起する絶好のチャンスである。全力で突進し、律法の間近にせまって、平然として言いなさい。「愛する律法よ。お前だけが神のことばだろうか。福音もまた神のことばではないのか。神の約束には終りがあるのか。神の恵みは終わったのか」と。

 それゆえに、こういうことになる。律法が、私は罪人であり、神のもっておられる罪人の名簿に載っていると訴えるとき、私は、それは真実であると告白しなければならない。ところが、「だから、あなたは罰せられる」という次に続くこと言葉に対しては、私はそれを認めないで、強い信仰で身を守り、こう言わなければならない。「律法によれば、私は罰せられる哀れな罪人であるが、私は律法を不服として福音に控訴する。神は律法の上にさらにみことばをお与えになった。それが福音と呼ばれ、罪の赦しと義と命を与えて下さるのである。」と。

 

 

教会ウェブサイトの作成 1.手段、規模、価格

教会のウェブサイトの作成について、私の経験をまとめています。

 

まず、どんな規模でサイトを作成するかを決めなければなりません。立派で自由にカスタマイズできるものほど、作成に時間がかかるし、お金もかかるし、デザインなどで決めなければならないことが多く、手間がかかり、場合によっては、意見の調整が大変な場合もあると思います。

掛け声だけで終わってしまう可能性もあることを考えて、時間的にも、人的にも、実際的に実現可能なところから始めて、徐々にグレードアップしていくのが賢いやり方だと私は思います。

 

1.ブログ

利点:

  • すぐに始められる
  • 更新がしやすい
  • 安い
  • 比較的アクセス数が上がりやすいと言われている。

欠点:

  • デザインがカスタマイズしにくい

など。

ブログを持っていない教会で、まず、教会の地図などを誰からでも見られるようにしたい、といったケースでは、まずブログを作成するのが圧倒的に早くて簡単で、確実です。それで物足りなければ、改めて別の方法を考えれば良いと思います。

どのブログが良いかは、「ブログ 比較」等で検索すれば、いろいろな情報が見つかると思います。

 

2.Googleサイト

Googleサイトというのがあります。無料で簡単に作れます。簡単にサイトを作成するには、とてもフレキシブルなので、一つの選択肢だと思います。

https://sites.google.com/site/howtousesites01/

上記の紹介サイトでは、無料でできて、広告がないので良い、ただし、超カッコいいデザインはできない、と書いてありますね。自由なデザインでやりたいという場合は合わないかもしれませんが、デザインがある程度許容できるなら、良いと私は思います。

 

3.独自に作成する

今回、私たちの教会では、すでに独自のサイトを持っており、リニューアルということでしたので、新しくサイトを作成することになりました。

既存のサイトがない場合は、

   ドメインとは、http://winetree.hatenablog.com/entry/2014/12/08/181526 のようなURLの中の、「winetree.hatenablog.com」の部分のことです。このドメインを私たちの教会で使います、と登録しなければなりません。

   サーバーとは、ウェブサイトのデータを置いておくコンピューターのことです。レンタルサーバーの場合は、どこかの場所にあるコンピューターを、インターネット越しに操作してデータファイルを置くことになります。作業自体は(慣れれば)簡単なものです。

 

といった作業が必要になります。私は一から契約をしたことはありませんが、それほど難しくはないと思います。

私たちのケースでは、既存のサイトと同じサーバーを利用し、同じドメインを使用したため、これらの手続きは不要でした。同じサーバー・ドメインを使用できたので、費用が安く、SEO(後述、アクセス数向上に重要)上も効果があったと思います。

 

サイトを作る際は、制作会社に依頼をしましたが、ワードプレスwordpress)というツールを使って作成していただくようにお願いをしました。ワードプレスはウェブサイト構築に世界中で非常に(最も)たくさん使用されているツールと言われています。後述しますが、ワードプレスを使うことで、様々な機能を簡単に利用することができます。

費用感ですが、私たちは、教会の関係の方の紹介もあったと思いますが、正確には知りませんが、50万円程度でできたのではないかと思います。(かなり安いと思います。)インターネットを見ていると、場合によっては200万円といった金額がかかっているケースもあるようですが、数百人以下の規模の教会で、文章や画像、映像、音声、地図その他を普通に掲載するだけであれば、そこまでお金をかけなくてもできるのではないかと思います。(サイトでネット販売をするとか、教会員が各自ログインして操作できるとか、特殊な機能が必要な場合は別ですが。)

 

 

4.その他のサービス

ウェブサイト作成のサービスは、非常にたくさんあります。その中で、価格がリーズナブルで、内容が充実していると思えるもので、一つだけ紹介します。たまたま私が知っていて、良いと思ったものです。

http://www.akibare-hp.jp/

初期費用2~5万円+月額5千円で、他と比べると、私の知っている限り、かなり安いのではないかと思います。(特に利害関係もありません。)

 

 

次回は、サイト作成の際に気を付ける点を紹介しようと思います。

イエス・キリストの容姿

映画に出てくるイエス様を見ながら、実際はどんな方なんだろうという会話を聞きながら、以前読んだ記事を思い出しました。

ローマ帝国の時代に、ユダヤの総督が書いたイエス様の描写と言われているそうです。非常に興味深いと思いました。

 

「荒野の泉Ⅱ」カウマン夫人(4月17日)より引用

「近頃、ユダヤに、まれに見る高潔な人格者が住んでいます。彼の名はイエス・キリストと言い、人々は彼を預言者のひとりと思っています。しかし、彼の信奉者たちは、神の子と信じ、愛し敬っています。彼は、墓から死人を生き返らせ、さまざまな病人たちを言葉で、またある時は手で触れる事によって、いやしています。彼は背が高く姿がよく、物静かで敬虔な容貌でした。彼の髪の色は釣り合う色とては他にないほどの珍しい色の、上品なカールの波状で、彼の頭によく似合っています。そして、ナルジ人の習慣にならって、髪は前の方にゆるやかに流れています。額は広く、顔は大きく堂々とした顔の彫の深さでした。頬にはしみやしわなどなく、赤味を帯びていて、美しく、鼻と口とは均斉がとれていて、よく調和しています。彼の顔ひげは、髪と釣り合っていて、あごの下の方に伸び、熊手のように真ん中から枝状に分かれています。彼の明るい薄青色の目は澄んでいて、穏やかで輝いており、清潔さと威厳のある男らしい成熟した人でした。彼の体格は完全で、魅力的で、両手両腕は頼もしく見えます。彼は威厳をもって人を戒め、柔和に人の相談相手となります。彼が語る時、それが言葉であっても、行為であっても、有弁になされ厳粛です。彼が声を出して笑ったのを誰も見たことがないが、彼の振舞はいつも快活そのものです。しかしまた、時々人々の面前で涙を流すことがあります。彼は穏やかで、慎み深く、賢明な人物です。人間としての彼の特別な美と天与の完全は、どの点からも普通の人間を超越していました。」

――この記述はローマ帝国時代、ティベリウス王の支配した頃、ユダヤの総督であった、パブリス・レントラスによって書かれたものと信じられています。

「すると、見よ、天が開け、神の御霊がはとのように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった。また天から声があって言った。『これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である』」(マタイ3:16-17)

 

・大工の子でいらっしゃったので、イスラエルの家は石でできているため、非常に力仕事で、肉体的には非常に健康でいらっしゃっただろうと推測されています。

 

・また、聖書の中で、イエス様が笑われた箇所がない、ということも印象に残りました。「悲しみの人であった」(イザヤ53章)からでしょうか。

 

イエス様のお姿に思いを巡らす時に、助けになる資料ではないかと思います。